昭和45年8月17日 夜の御理解
信心を頂いておっても、おー、間違わんように間違わんようにと、おー、させて頂いておりましても、おー、生身を持っとる凡夫の事ですから、何時何処から間違うて来るやら、何時何処から、あー、思い上がった生き方になるやら分かりません。又は、思い違い考え違いやらもあります。けれども、あのー、とりうけ私共の場合こうして、お取次の御用でもさせて頂かなければならん者は、とりうけそこん所をまぁ心掛けさせて頂いておりますけれども。
まぁ、(やや?)もすると、間違おうとする事ばっかりで、所がもう私共は、日に何回となしに、神様から、は、(はやまち?)がよるぞ、そりゃこう、これは、あ、ずっとこう、お知らせを頂くからおかげを頂いてね、あの、おかげを頂いて間違わんでいきよる。もう本当に一つおかげを頂きましてね、えー、いかにもの教えを、あの、本当にお互いが成就しておらなければ、いわゆる心にかけておらなければ、もう自分のね、例えば態度一つでもですね、あ、そんな事では可笑しいぞ、とこう言うて下さらなければ、私は何時の間にか崩してしまうもんですよね。
あの、今日も私が昼下がってから、あー、親教会の今日は月次祭でしたから、やらして頂こうと思うて、準備しよりましたけれどもう、とにかくまた、この例の体がきつくなる、きつくなって、足袋まで履きましたけれども、またとうとう足袋脱いでから、休ませてもらいました。
そして、あのー、おー、や、休ませて頂きましてから、うとうととこう眠ろうかとしよっ時に頂く事がね、ここのあの、旗が三本建ってますね、旗竿が。あの、両足、両足にね、えー、あの旗竿がね、(にっしおき?)がこうひろがえっておるところを頂い、真中にね、何の旗も立ってないところを頂いたんですね。そこで私はあの、御理解頂きましたら今日はね、お前は体がきついなら横になって寝れて、けれども2時を待て、2時から私今、昼の御祈念、あの昼の奉仕をさせてもらいます、4、4時の御祈念まで。
ですから、それまで眠らんで、2時を待っとけという事を頂くんですよ。ね、信者達が、例えば両方の日の丸という事は、日の暑い事はセクシーという事でしょうが、真心いっぱいで今日は汗、暑い中を一生懸命大祭前のご奉仕をしておるぞと。だからお前横になっとっても良いけども、眠っちゃいけんぞ、とこう言うて下さるんですよね。
どうでしょうね、私がもしそれ頂かなかったら、眠って、さぁ2時は、3時までも眠ったかもしれませんがね。もう本当にあのその調子ですよ。今日もあの、先ほど今日は、午後から、今日はしげおさんが、あのー、大祭前の御用が、こう出来んなられんふうですから、あの、調度品の取り替えなんかは、私がしなきゃ分かりません。それで今日も、しこ4、5人、少年少女会の子供達を相手にしてから、まぁ客殿から、全部あのー、調度品を替えさせて頂きましたんです。
何かとにかくあっちいたり、こっちいたり、物を出したり閉まったり、と大変私にとってもきつかったんですけれども、そんなわけで今日夕方遅うなりましてね、夕食ももう、さっき済ませたばかりです。
それで、丁度久富先生と、あの高橋さんが一緒に、まぁ晩餐一緒に致しましたがね、えー、今日、お、まぁつかれておるからというのでしょう、お、ビール2本持って来とりました。ですから何時もなら私がね、えー、はい、久富先生(からなと?)一本、私と高橋さんは一本半分ずつ、と言うようないき方なんです。何時もそうするんです。
それけ私、今晩もそうさせて頂こうと思うておりましたら、神様がね、あの、「優雅でない」という事を頂きました。優雅、ね、上品に優雅な生活と申しましょう。
私は、本当例えば同じ晩餐でもですね、もう少し楽しゅう、何とか折角、まぁめったに頂かないビールを頂くんだから、少しね、三人で(うわいよう?)あ、言うならコップ漏らしながら頂いたらどうか、とまぁコップ漏らしながら頂けれないですけども、3人で頂いたらどうかと、と言うことなんですよ。
だから、私今日は3人で一緒にまぁ2本を、まぁ頂いたわけですけれどもね。んー、ね、で結局理屈は同じなんですよ。やっぱり、私共は、高橋さんが召し、召し上がりませんから、私もんな一本ちゃ多すぎるけん、結局はやはりあの、(丁度ちかちらに?)一本以上になっとるくらいでしょう。ね、けども、( ? )いかにも飲むけんで、っち言わんばかりのぐつしてから、あんた一本ほらと言うてやるよりかですね、3人で1コップをこう、おー、頂きながら2本のビールを3人で頂くという事の方が、どのくらいやはり優雅か分からん。
たったその茶飯事のね、そういう事にでも神様はお指図下さるのですよ。ね、ですからね、私が言う事は確かに間違え、まぁ皆さんよりも誰よりも間違いのない事ですから、動作一つでも注意されたらそれを本当直さにゃいかんです。
あー、そげな事じゃいかんよ、って言われたら本当に神様から、そういう言われておると思うてですね、あの、直さなきゃいけません。自分の我流が出てね、変な、もう合楽にはにてもにつかんような流儀が出来たりしたらいけません。そりゃ、なら私の流儀が(優雅いう?)段々段々、こん、私の流儀はより優雅なものに、言うならばね、こうやって神様が、あの、これが本当じゃないけれども、より本当の方へ神様に導いて下さる事は間違いないのですから。
問題は皆さん私に着いてくりゃ間違いなか、と言うような気がいたしますですね。もうそれではなくても、私共の人間的な思いと言うものがね、非常に頑固に頭から外れません。これがほんな事思いこんどるような事があります。けれども神様はちょっとそこを、そらさせて頂くととても楽な事になってくる事もあります。
または、なるほどそれが本当だと後で気付かせてもらうような事もありますからね。もう本当にやはり、そこん所をお伺いしよう、お伺いし、あの、またはそこを見習い見習いさせて頂きながら、おかげをこうむって行かなければならんとおもうですね。どうぞ。